良寛によせて、今。
現代社会は便利・快適で豊かな生活を求めて、ほぼそれを実現しました。その一方で、なぜ豊かになった社会に生きる自分たちに、
真の幸福感が薄いのでしょうか。ほんとうに幸福ならば、もっとまわりが生き生きとし、楽しげで笑顔や喜びの声がありそうなのに、どうもそんな気配はありません。現代日本人の生き方と良寛(1758-1831)ぐらい縁のないものはありません。一方は物余りであり、一方は無一物です。それが、今回の東日本大震災で破壊され、津波に飲み込まれた家屋や畑など、宅地や農地の人々の生活の場が、一瞬にして目の前から消え去ったのです。いままで、安穏と暮らしていた現代日本人に、それまで思いも及ばなかった真の幸福感とは何であるか、自らが生きることの原点をわれわれ一人ひとりに突き付けています。無一物の生に徹した良寛に、自分自身を映し出す鏡を見ようという人がだんだんと増えてきているのかもしれません。
「手毬~月の兎」は、<子どもたちと遊び興じるわたし>と<月を仰いで涙を流すわたし>の心象風景を描きます。大蔵流狂言師山本東次郎の語りは良寛のこころの内面を表出し、山田流箏曲家鈴木真為が良寛の長歌を箏の調べにのせて、新たな歌と語りのテクストに臨みます。「無一物の生は」、声明の会・千年の聲を構成する天台聲明(七聲会)と真言聲明(迦陵頻伽聲明研究会)が良寛の情感溢れる歌を唱え、観世流シテ方観世銕之丞が良寛の迸り出てくる思いが綴られた詩を語ります。自然と和解する手立てとして、生田流箏曲家 西陽子の箏が奏され、生死を見つめる祈りの時空を現出します。