鎌倉仏教
鎌倉時代には多くの宗派が生まれている。当時は政治の実権が貴族から武士へと移る転換期であり、その一方、天災・飢饉・戦乱などによって民衆の苦悩は深まっていった。しかも仏教史観によれば、末法の時代でもあった。そうした中で貴族階級中心の平安仏教に代わり、民衆の救いへの願いに応える仏教が生まれたのであった。
浄土宗
浄土宗系の教団で宗祖とされている法然 (1133~1212) は初め比叡山に上り、次に南都に遊学し、諸宗の奥義を極めたが満足できず、ついに中国の善導大師のされて、専修念仏を唱導する浄土宗を開創した。
『観経疏』の一文に触発なわち、この末法の時代には阿弥陀仏の御名を称えることによって極楽浄土にひきとっていただき、そこでやがて悟りを開く方がふさわしいと、専ら念仏の易行のみを修する立場を選択したのであった。 この他力易行としての念仏は、愚人、悪人こそが救われる道として、当時の民衆に大きな影響を与え、法然のまわりには貴族から遊女らに至るまで集まったのであった。 しかし、従来の諸宗は伝統的な仏教を否定するものとして反発し、朝廷に念仏停止の令を発するように働きかけた。結局、法然は、土佐( 実は讃岐) 流罪に処せられ、高弟らも、死罪や流罪に処せられた。 現在の浄土宗は、法然の高弟のうち特に九州地方で活躍した弁長 (1162~1238) の鎮西流を中心とする宗派である。第3祖の良忠 (1199~1287) は主に関東を中心に伝道し、その門下からさらに全国に広まった。法然の高弟の一人証空 (1177-1247)の門流は現在、西山三派といわれている。 日蓮宗
日蓮宗は、日蓮 (1222~1282) を宗祖とする。日蓮は初め、清澄山に登って仏教を学び、後、比叡山で天台教学を究めるなどし、故郷 (千葉) に帰り、建長5年 (1253) 、清澄寺で南無妙法蓮華経と高唱したのが開宗とされる。その後、鎌倉を中心に布教活動を展開し、幕府に対して法華経に帰依すべきことを訴えたが聞き入れられず、そのことにより数々の法難を受けた。佐渡に流されるが、やがて許されると身延山に入り、そこで専ら法華経の宣揚と道俗の訓育に当たった。7年間ほどして病いを得て身延山を下り、常陸に療養に向かう途中、立ち寄った池上にて示寂した。
日蓮宗では、南無妙法蓮華経の題目(経の題目)を唱える、唱題ということを説くが、それは、法華経こそが釈尊の悟りのすべて、すなわち宇宙の実相を表わしており、しかも「妙法蓮華経」の題目は、単に名称ではなく、法華経の説く内容、つまり仏陀の証悟の世界そのものである、と日蓮が見出したからである。 なお、日蓮は、南無妙法蓮華経を中心に、諸仏諸尊を回りに配した図によって末法の衆生を救済するという釈尊の本懐を顕わたしたが、その図顕の大曼陀羅も本尊として礼拝の対象としている。現在、日蓮系の教団には、身延山を祖山とし、池上本門寺に宗務院を置く日蓮宗を初め、顕本法華宗、法華宗 (本門流・陣門流・真門流) ・本門法華宗等々、種々の宗派がある。ここには、法華経に対する解釈の相違が介在している。 なお、日蓮の寂後、身延の御廟は日蓮の定めた六老僧が管理したが、その中の一人、日興(1246~1333) の流れを汲むのが日蓮正宗であり、富士の大石寺に拠っている。 浄土真宗
浄土真宗の宗祖は親鸞 (1173~1262) である。親鸞は初め比叡山で修学に励んだが、29歳の時、京都六角堂に参籠したおり、聖徳太子の夢告を得て、法然の下に参じたといわれる。やがて法然の高弟の一人となり、法然が四国流罪とされたときには越後流罪に処せられた。
その後、関東で教えを弘め、晩年には京都に帰ったが、手紙 (消息) により関東の門弟を指導し続けた。 親鸞は、法然の唱導した浄土門の念仏の教えこそ真実の教え (浄土真宗) であると考えていた。もっとも親鸞の立場はむしろ信心に徹底し、信が定まったときに必ず仏となる者の仲間 (正定聚という)に入る、すなわち、浄土往生以前にこの世で救いが成就する (現世正定聚) とされた。しかもその「信心」も「念仏の行」も如来より施与 (廻向) されたものとされ、絶対他力の教学を完成した。晩年には自然法爾と述べている。 なお、親鸞は妻帯も仏道を妨げないことを唱え、非僧非俗と称し、出家教団とは異なる教団を形成した。現在、真宗教団で最も大きなものは、浄土真宗本願寺派 (西) 、真宗大谷派 (東) の東西本願寺教団である。 本願寺は元来親鸞の廟堂であり親鸞の子孫が管理した。三代覚如(1270~1351) の時、本願寺となり、第8代の蓮如 (1415~1499) は活発に布教活動を展開し、今日の大教団の基礎を築いた。 なお、東本願寺は、徳川家康が当時現職を離れていた教如 (光寿) に施与したもので、それ以前からあった本願寺を西として、東西両本願寺が並び立つこととなった。そのほか浄土系の宗派の代表的なものとして融通念仏宗と時宗の二宗がある。 融通念仏宗・時宗
融通念仏宗は良忍 (1072~1132) が開祖である。良忍ははじめ天台宗を修めたが、比叡山を下り、46歳のときに阿弥陀如来より「自他融通の念仏」を受け、融通念仏宗を開いたという。
自他の念仏が相互に力を及ぼしあって浄土に往生すると説いている。 良忍はまた、天台声明の中興の祖としてしも有名であり、大念佛寺を総本山としている。時宗の開祖は一遍 (1239~1289) である。 一遍は証空門下の聖達に学び、後に熊野本宮で神勅を得るなどして自らの教学を形成した。 一遍は捨聖といわれ、遊行をこととし、彼の門弟も一遍に従って遊行した。 また念仏を称えた人には算という念仏の札を与えた (=賦算) 。その宗団は、初め、時衆と呼ばれ、室町時代にかけて大きく成長した。 清浄光寺 (遊行寺) が総本山である。 禅宗
鎌倉時代に成立した禅宗に、臨済宗と曹洞宗がある。臨済宗は中国で成立した禅の一派で、禅匠臨済義玄の禅風を伝える宗派である。日本には栄西 (1141~1215) が宋より伝えた。
ただし、現在に伝わる臨済宗各派のほとんどは、鎌倉末期から室町期に活躍した大応国師(南浦紹明) 、大燈国師 (宗峰妙超) 、関山慧玄といういわゆる応燈関の流れである。 さらに江戸時代には白隠 (1685~1768) が出て、これを中興した。禅とは精神統一の状態を意味dhyana(jana)の音写・禅那の語に由来する。すなわち、座禅を組んで精神統一の状する態に入り、自己の本性を見徹し、悟りを開くことを目的としている。その悟りの境地は、言葉によって説明することはできず、師と弟子の間で心から心へと伝えられる (不立文字、教外別伝) 、という。 また、古来、禅僧には、その悟りの立場から発する奇妙な言動が禅問答として遺されているが、それらは後に禅の学人にとって自らの修業を深めるよすがとして活かされるようになった。これを公案という。白隠禅は公案による禅修業を主体としている。 臨済宗の中で最も大きな宗団は臨済宗妙心寺派である。妙心寺の開山は関山慧玄(1277~1360) で、室町時代に雪江宗深によって全国的な広がりをもつ一派となった。その他大本山とその開山を挙げると、建仁寺は栄西、南禅寺は無関普門 (1212~、主な1291) 天龍寺は夢窓疎石 (1275~1351) 、大徳寺は宗峰妙超 (大燈国師) (1282~1337) 、建長寺は蘭渓道隆 (宋1213~1278) 、円覚寺は無学祖元 (宋1226~1286) 、また、相国寺は夢窓疎石を開山春屋妙葩 (1311~1388) を二世とし、各本山ごとに宗派を形成している。臨禅は武士階級に好まれ、また、絵画 (水墨画) 、演劇 (能) 、茶道等、中世の文化に非常に大きな影響を与えた。 なお、江戸時代、明の禅僧・隠元隆〇 (1592~1673) によって臨済禅が伝えられたが、現在、黄檗宗として伝えられている。京都宇治の黄檗山万福寺を本山としている。曹洞宗は、やはり中国の曹洞宗の禅を、道元 (1200~1253) が入宋して伝えたものである。道元は初め、比叡山に上り修行し、その後、栄西にまみえて禅を修するようになった。さらに宋に渡って禅宋諸師に遍参し、ついに天童如浄の下に、「身心脱落、脱落身心」と大悟し、印可を受けた。 帰朝したが、旧仏教の圧迫を受けたり、幕府にも受け入れられなかったりしたため、越前に移り、永平寺を開き、弟子の育成に尽力した。 曹洞禅は臨済禅と考え方がやや異なり、公案は用いず只管打坐、ただ座るということを重んじている。座禅は仏のはたらき、仏の活現に他ならないということで、これを「本証の妙修」という。また、曹洞宗では、「行持綿密」、「威儀即仏法」といって日常生活の微に入り細にわたって綿密な規定がなされている。 道元の家風は、極めて厳格で、格調の高いものであり、一般に広まる性格のものではなかったが、その門下の第四祖、瑩山紹瑾(1268~1325) が禅を大衆化し、現代の大教団の基礎を築いた。瑩山紹瑾はは、石川県の能登に総持寺を開創したが、これは明治に入って火事にあい、横浜の鶴見に移っている。 現在、曹洞宗は福井の永平寺と鶴見の総持寺の二大本山制をとり、道元を高祖、瑩山を太祖として尊崇している。
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